儀礼的無関心とは、アメリカの社会学者アーヴィング・ゴッフマンが名付けた社会的相互作用の1つで、「見知らぬ人とのあいだでは、相手をちらっとは見るが、その時の表情は相手の存在を認識したことを表す程度にとどめ、決して凝視せずに視線をそらし、相手に対して特別の好奇心や特別の意図がないことを示すこと」を表します。
目次
- 最も身近な電車の事例
- 儀礼的無関心は近代に生まれた
- なぜ儀礼的無関心が必要なのか
最も身近な電車の事例
日常生活における儀礼的無関心の最も身近な例が電車です。電車では、閉ざされた空間で見知らぬ人間同士が密着せざる負えない状況が日々作り出されていますが、まさにそうした場でこの儀礼的無関心は必要となってきます。
電車の場合、よく挙げられる無関心の例に「むやみに他人を凝視しない」というものがありますが、私たちは、無意識にこのような儀礼を駆使して日々を暮らしているのです。
儀礼的無関心は近代に生まれた
儀礼的無関心は、人間が本来備えてる能力ではありません。そもそも他人と長時間、閉ざされた空間に存在しなければならない状況は、電車などの公共交通機関が発達するまで、ありませんでした。
また、幼少期の子どもは、車内で、他人を見つめてしまうことは多くあります。公共空間で子どもに見つめられ、違和感を感じた経験のある方も多いのではないでしょうか。
つまり、儀礼的無関心を払えるようになるには、公共空間で過ごす経験値や、想像力などが求められるのです。
なぜ儀礼的無関心が必要なのか
そもそも、なぜ儀礼的無関心という社会的相互作用が取り上げられ、重要視されているのでしょうか。それを理解するためには、儀礼的無関心が働かない場合を考えるとわかります。
もし人が街中や電車、仕事場やパーティーなどで、偶然に出会い知り合いになった人に対して、じっと見つめ、相手を凝視したとすれば、どうでしょうか。
それは、相手にとって敵意の表示として受け取られる可能性が高く、最悪の場合、トラブルに発展する可能性があります。
つまり、儀礼的無関心は、相手に対して敵意をもったり、怪しんだり、相手を避ける理由が何もないことを相手にほのめかすことを助長しているのです。